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子どもに詰め込みすぎるのはいけない

どのような産業が発達するのか、どんな新しい技術が生まれ、新たしいインフラになるのか、誰も予測できないような時代になっています。情報化がさらに進んでいる現在では、どのようなことも簡単に調べることができます。

どのようなことでも即座に調べることができるということは、全世界の誰もが同じ情報を共有して、物事を考えることができるという事です。「新しいアイディア」は沢山出てくるものです。自分が「最初の発見者だ」と考えていても、実は先を越されていたということもよくあるハナシなのです。

新しい技術というものは、もともとある技術との掛けあわせであったり、物事の見方を変えてみたりするものです。それらを編み出すためには「知識」だけではいけません。物事を応用したり、さまざまな角度から捉え直す探求力などのようなものが必要だったりします。それらは「性格」にも左右されるようなものです。ただ書籍を読み漁るだけでは、それは「知識」です。それをどのように組み合わせるのか、ということは一種の「創造」です。つまり「新しいこと」というのは「クリエイティブ」であるということなのです。

将来子どもが困らないように、さまざまなことを覚えさせた方がいいだろうという理屈は一見正しいように見えます。しかし、実はどんなことを学ばせても、どんなことを身につけさせても、それは「知識」なのです。応用できるような時間、さらに掘り下げると「なぜそれがそうであるのか」ということを探求することができる時間が必要です。自分で考えてみて、誰かから得た知識が「だからこうなんだ」と納得できる余裕が必要なのです。それはただ詰め込むだけでは成し得ないことです。ただ一生懸命勉強するだけでは、成し得ないことなのです。

実は、子どもの教育に「ゆとり」を与えようというのはそのような思いも込められていたものでした。ただ「余暇」を増やす」ということだけが目的ではなかったのです。そこには応用するチカラ、考えるチカラを持ってほしいという願いがありました。ですが、私たち人間はどうしても「休む」ということが必要です。そしてついつい「休んでしまう」のです。ましてや子どもたちが自発的に「探求しよう」と思い至るということを期待するのは、あまりにも無謀だったのかもしれません。

ゆとり教育を脱した現在ですが、そのような意味でもやはり「詰め込む」ということは推奨できません。「覚えればいい」ということではなく、覚えたことを「使えなければ意味がない」のですから、「使う時間」というものが必要なのです。その物事を使いこなす時間が、子どもたちには必要なのです。ただ時間だけではいけません。その「機会」を与えることが重要です。そして興味を持つことができるようなキッカケと出会うということです。

勉強していればどうにかなる、ということは「試験」だけです。実際の社会では、試験の先に「それを使いこなす」ということが待っています。ただ運転免許を取るだけでは安全運転ができないのと同じようなものです。目的は「社会でのびのびと、たくましく生きること」であるはずです。そのための「手段」として「教育」があるのですから、テストの点で良い結果を残すことを「目的」にしてはいけないのです。