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自分の子どもの頃とは違うということ

「子ども時代」というものは懐かしいものです。誰もが時に思い出し、感傷に浸ることでしょう。今の子どもたちに、昔の自分の姿を重ねて、「自分もああだった」と懐かしむものです。

やがて親になったり、叔父や叔母になったりすると、まずは自分がどう育ったか、ということが頭に浮かぶでしょう。自分が何を見て、何を感じて、成長してきたのかということを思い描くものです。そしてそれと同じものを子どもたちに与えてあげたいと考えることでしょう。ですが、時代が違うのです。

子どもに何を体験させれば有意義なのか、何を見せてあげれば将来たくましく育つのかは、その時代によって違います。例えば、私たちの祖父母は「戦争」をリアルタイムで知っています。戦争の頃に子どもだった人たちが、私たちの祖父母の世代でしょう。その頃の「常識」と、今の「常識」は、全然違うものです。「古き良き時代」ではなかったのです。そうなると私たちの祖父母は自分たちが経験した幼少期を私たちに経験させたいとは考えていないのです。

つまり、私たちが、自分が経験したことを子どもに与えてあげたいと考えるということはそれだけ「幸せだった」ということです。今よりも景気が良かったかもしれません。今よりも「良い時代だった」のかもしれないのです。対して「今」はどうでしょうか。生活にこまらないだけの金銭は得ることができてはいても、娯楽に費やすお金は減ってきていないでしょうか。自分の親と同じようなお金の使い方ができないのではないでしょうか。

ある意味私たち、「今の大人」の世代は恵まれています。私たちの「親」は多かれ少なかれ「バブル経済」の恩恵を受けたはずなのです。その恩恵は、私たちが成長する中にも影響があったはずです。私たちは恵まれて育ったのです。ですが、今迫りつつある未曾有の経済危機に対応できる「感覚」がありません。日本が世界のヘッドライナーから滑り落ちる日が間近に迫っているのに、どう対処していいかわからないのです。

明日も今日と同じ仕事がある。来年も今と同じことをしていると夢想している人は、まず脱落する可能性があります。それを「社会のせい」だとか、「政府の経済政策のせい」と言う人から、凋落するのです。そのような危機に面している状態を実感できないことが問題で、ある意味では私たちも「ゆとり」として育てられたのです。

日本の戦後の経済を作り上げた人たちから見れば、今の状況はもどかしいのではないでしょうか。まだどうとでもできる状況であるはずなのに、黙って死のうとしていると、見えていないでしょうか。

そのような私たちの子どもです。私たちが経験したことと「同じ」でいいのでしょうか。違うような気がします。もっとたくましく育つような経験をさせてあげた方がいいのではないでしょうか。それが「育てる」ということです。仕事が誰かに守られるものではないということ、一人ひとりが、「自分の生活を守る」ために戦わなければいけないということを実感する必要があります。ただ安穏と過ごせる時代は終わったのです。それを「常識」として今の子どもたちに伝える必要があるのではないでしょうか。楽しいこと、素晴らしいことだけではありません。私たちが奮闘している姿を、少しでも見せてあげた方がいいのではないでしょうか。