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向き不向き、性格は千差万別

人にはそれぞれ「特性」というものがあります。自分の趣味嗜好、好み、考え方などがあるのです。どのような趣味嗜好でも、どのような好みでも、どのような考え方でも、自分がそうである以上、それは「正しいこと」なのです。

「個性」に関してはさまざまな考え方があります。学校などでは、よく「個性が尊重されていないのではないか」といわれることがあります。私たち自身が成長してきたなかで感じてきたものでもあります。同じ制服を着て、同じ時間に登校して、同じことを学ぶ。みんなと同じように部活動などに精を出して、疲れきって帰っていく。そのような日々が嫌だった人もいたでしょうし、楽しんで過ごせた人もいたでしょう。学校に意味を見出していた人もいれば、なんの価値も感じられなかった人もいます。それでもどうにか通い続けた人もいれば、全然行かず、はてはやめてしまったという人もいます。

「学校に通うこと」は間違ったことではありません。特に義務教育を完遂しておくことは大切なことだと思います。私たちが生きていくために必要な社会性、一般教養など、教科の額面上だけではないものを得られるからです。みんなで協力することの大切さであったり、仲間との絆であったり、その時代の学校でしか味わえないようなことも沢山あるのです。

その後「進路」ということを考えたときに、当然一般的なのは「進学」です。高校生の年代では自己も確立され、自分が何物であるのか、何になりたいのか、そしてどのように生きていきたいのかということも考え始める頃でしょう。進学することは、一般的ですし、勉強すればどうにかなるものです。ですが、それは多くの人にとって「モラトリアム」なのです。

大学も同じです。とりあえず大学に行って、4年間最期の学生生活を楽しんで、みんなと同じように就活するという「流れ」がある程度確立されているのです。それが正しいのかどうかはあえて述べません。ですが、「成長したら働かなければいけない」という一種の強迫観念で動いていることも沢山いるのではないでしょうか。みんなが就活するから、とりあえず内定を探しにいく。親を安心させるために、就職する。

そのような一種の「レール」が、私たちの本当の「個性」を腐らせているということはないでしょうか。進学、就職が季節もののように捉えられていたりするのですが、それは「みんながそうだから」ということであればあまりにも寂しいことです。「自分が何をしたいのか」ということをもっと早くに見つけられたのではないでしょうか。それは中学時代かもしれませんし、高校時代かもしれません。大学時代で見つけるのが一般的ですが、自分の希望とは裏腹に「就職難」の時代では「内定」をもらうためにやっきになるしかありません。

試験、試験と進んできて、最期の難関が就職試験。そこには「学力」だけが武器にはならず、総合的な「人間力」を測られることになるのです。「なにをしたいのか」ということを見つけていれば、その人はもっと積極的に自分を磨けたはずです。惰性で就活などしないはずです。モラトリアムとしての学校生活を怠惰なものにはしなかったでしょう。私たちの個性は、「いつ」見つければいいのでしょうか。答えはわからないのです。