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「成長」に終わりはない

もう勉強することはない、探求することはない、この世のすべてを知っている。などという人はこの世には存在しません。誰もが日々悩み、考え、迷い、そして成長しているのです。

子どもは身体的にも日に日に成長していくものです。保護者の庇護の元、スクスクと目に見えて成長するのです。やがて身体的に成熟し、働けるような状態になったら「終わり」というわけではありません。子どもが大人になっても親は親です。そして、その「親」もまた成長しているものなのです。

「もう勉強することはない」と言い切るような人は間違いなく「怠け者」か「驕っている」ということになります。生きている以上、成長に終わりはなく、どのようなことに関わっていたとしても、まだまだ出来ることがあるはず、ということになります。私たちはそのようにして考えながら、迷いながら生きていき、やがて老います。死ぬ瞬間まで、考えることはやめないでしょう。それが「人間」の本質です。

私たちがこのような豊かな暮らしを手にできているのは、先人が考えて考えぬいた結果であるといってもいいでしょう。私たちの親、祖父母、そしてまだその上の世代も、私たちと同じように考えて生きていたのです。すべての物事に対して「答え」を見出すことは難しいものです。ですが、私たちはその時その時の「最善」と思うことを実践することができます。その結果が間違っていたとしても、私たちは「ならばこれではどうだ」と再チャレンジすることができるのです。そのようにして「勉強」し、「学ぶ」ことができます。そしてそれを後に伝えるために「記録」することができるのです。

私たちの知的な、文化的な取り組みは終わりません。それは生涯をかけたものですし、世代をまたいだものです。誰かが編み出した技術やインフラをみんなで享受し、また明日それぞれが新しいものを創りだす、それが文明の営みです。私たちはそれぞれが役割を担っていて、それらは生涯かけて探求する価値があるものなのです。

子育てもそうです。自分の子どもの人生をどうアレンジしてあげるか、巣立ったときに何を武器にして生きていけるようにしてあげるのか、私たちは考えているのです。そして「正解」はありません。「正しい子育て」なんていうものは、誰もしらないものなのです。私たちは日々子どもと向き合い、迷っています。子育ての中で、自分の子どもと向き合う中で、自分もまた成長しているのです。

「大人」とは、年齢的なくくりでしかありません。たしかに社会を動かす歯車として、堂々と胸を張って生きています。ですが、覚えることは沢山あります。経験すべきことは、まだまだ沢山あるのです。そして無意識のうちに、私たちは勉強しています。成長しています。今日よりも明日が良いものになるように、努力しているのです。それは自覚がないかもしれませんが、「昨日道で転んだから今日は注意しよう」というような些細なことから、「もっと社会に貢献するためには」という大きなことまで、私たちは日々考えて生きているのです。ですから、実は子どもも大人も関係ないのです。私たちは「知」という途方も無いものをどれだけ得られるかということに生涯を費やしているのです。