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子どもはやがて巣立つ

人は同じ時間を過ごします。ただダラダラした毎日でも、忙しく目まぐるしい毎日でも、私たちが使える時間は有限です。そして、それは「共通」です。誰にでも時間は等しいのです。

私たちは望んでも望まなくても成長してきたものです。「大人になりたい」と焦っても、「ずっと子どものままでいたい」と甘えても、等しく年齢を重ねてきたのです。その結果としてあるのが、ひとりひとりが感じている「今日」です。昨日があったから今日があるのです。その繰り返しを何度も重ねて、「今」こうしていられるのです。

人間は誰もが成長します。それは肉体的にもそうですし、精神的にもそうです。自分が成長してきた過程はとても長く、一言では表せないものもあるでしょう。「この年令になったら大人だ」という年齢に達した人でも、想像していたような「大人」にはなりきれていないかもしれません。誰もがそういうものです。「こうなれば成功だ」とか、「ここが目標だ」というものは誰もが持つものです。それが漠然としていても、具体的でも、達成していても、辿りつけていなくても、私たちは現実を見た瞬間に「まだまだ終わりではない」と考えるものです。なぜならば、「明日がある」からです。

同じ明日があるから、今日を一生懸命生きるのです。ただ、そのような考えこそが「大人」であり、毎日安心して寝食ができる「子ども」にとっては、「明日」も「今日」も同じ毎日であるかもしれません。皮肉なものです。時間がたっぷりある子どもの頃は、「育てられている」から「焦る」必要がないのです。焦るとしても習い事や学校の勉強、テストなどです。

私たちは成長してから感じます。「あの時代にもっと学べることがあったはずだ」と。それが人間なのです。誰もが育てられている間、将来の自分が時間に追われて目まぐるしく働くような大人になるとは考えていなかったのです。私たちが夢想したのはテレビや漫画の中の人物のように自由でドラマチックな毎日です。ですが、現実はそうはいかないものです。実際に生活するということは、生きていくということは、そのように優しいものではないのだということを、成長してから知るのです。

毎日生きていくということがどういうことか、日々食べていくということがどれだけ大変か、成長した今では知っています。毎月給与を得るということのためにどれだけの努力が必要なのか。毎日働くということのストレスも、職場環境でうまく渡り合うために必要なことも、生きていくことのあらゆる局面が「過酷」かもしれないのです。

将来、子どもは必ずそのような環境に身を投じるのです。ずっと育てていくわけにはいかないのです。養っていくわけにはいかないのです。子どもが望まなくても「自立」させる必要があるのです。それまでの時間は「限られている」のです。限られた時間で、何を子どもに与えられるのかということが、「親」が問われていることです。

子どもを直接育てられるのはせいぜい20年間です。それ以降は子どもが自分で考えて暮らしていくのです。自分の足で地に立ち、自分の才覚で糧を得、生きていくのです。そのように「送り出す」責任が、親にはあります。その時のために、育てているといっても過言ではないのです。